月刊「もん」第10回目

                   
― 笑満
(エマ)が私たちと出会った理由(わけ) ―

この秋には私たち家族が二度目を迎える記念日があります。10月25日、笑満が私たちとサンフランシスコに降り立った日です。

もちろんこの日は笑満の大好きな場所でお祝いをする日で、3歳にして既に行きつけのお寿司屋がある笑満はお店に入ると寿司バーへと一直線。三人の真ん中に座り一人前にまず熱いタオルで手をきれいにします。すると店のおにいちゃんは笑満が食べるものは一つしかないことを知っていても「What would you like?」と尋ねます。笑満は「納豆巻き Please…」と、はにかみながら答える。赤ん坊の時から食べていたので笑満は納豆が大好物。玉子焼きをサイドに付けてもらい一皿をペロリとたいらげると、今度は店主の“アンクル しも”がメニューにはない手料理をだしてくれる。それも食べ終わると大好きな女将さん“アンティ ひろ”にアイスクリームをねだる。帰り際には次の日に持っていくお弁当まで持たせてもらいます。サンフランシスコに着いたその日から可愛がってもらっている下(しも)夫妻”のお店で美味しいものを食べることが笑満の至福の時間なのです。

おじいちゃんと笑満 (1) 
「おじいちゃ~ん!」 今夜も岐阜のジジからテレビ電話“スカイプ”でラブコールです。
私の父は中学教師でした。当初、私が「施設にいる子を養子にする」と告げたとき、言葉に出して反対しなかったものの、公務員という保守的な考え方の人間にとって私の一言は、「静かな池に石を投げる」ような行為だったに違いありません。

私は、笑満との養子手続きの為に岐阜にとどまる事になり、妻は1ヵ月おきに岐阜とサンフランシスコを往復しました。笑満が私の実家に移り住むまでの数ヶ月間、父と私の二人だけの生活は葛藤の日々でした。自分に孫が出来るなどということは全く頭にはなかっただろうし、“見知らぬ子”を自分の子供にするために注いだ私たちの情熱と苦労そして犠牲が父には到底理解できない様子でした。

2005年6月1日、笑満が「まりあ」の生活に終止符を打ち私の実家で暮らす事になりました。当然おじいちゃんも一緒です。人見知りが真っ最中の笑満にとって、しわの多いこの人は、「おばけ」に見えたかも知れません。そして、おじいちゃんにしてみれば、私が突然連れてきた“他人の子”でした。

笑満も私の父も、互いに「さぐりあい」といった面持ちで最初の日々を過ごしました。それでも父は、笑満が持つ特有の個性に惹かれるように“関わり”の時間が増えていきました。笑満はベビーカーのシートベルトに好奇心を寄せ、なんとか装着しよう試みますが1歳になったばかりの幼児に出来る訳がありません。そんな時、父は一生懸命になって「こうやってするんやて〜、ちゃうちゃう、こうやて〜」と岐阜弁で叫びながら、偶然できたりすると二人で雄叫びをあげて「やったー!もっかい、やってみ〜」などと、いつまでも相手になってやったり、天気の良い朝は日課の墓参りに連れていったりしていました。笑満も遊び相手を独り占めできる毎日の生活が楽しかったに違いありません。二人の仲が見る間に急接近していきました。

男二人が一人の幼児に振り回されるドタバタ劇のように数ヶ月過ぎ、この頃になると笑満にとっておじいちゃんは大切な親友のような存在で、私が叱ったりすると、おじいちゃんに助けを求めにいったり、また食事の時間におじいちゃんの膝の上で食べているのを見るのは実に微笑ましい光景でした。



青木信哉
Aoki USA, Inc. 代表 & 翻訳家
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