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2005年3月
パパに抱っこされてもこの日は泣きませんでした。
−岐阜市長良公園で

 

 

 

 

2005年10月25日
笑満と始めてあった日から499日目、親子として3人でアメリカに来ました。私たちの新しい記念日です。

 

 

 

2005年 Halloween Day
生まれて始めてのハロウィーンはエンジェルになりました。

 

 

 

2005年クリスマス
アメリカのクリスマスツリーは大きいな〜

 

 

 

2006年2月
岐阜からジジが来てくれました。

 


月刊「もん」第2回目

                   
― 笑満
(エマ)が私たちと出会った理由(わけ) ―

「月刊もん」が30周年を迎えた10月は、笑満がサンフランシスコで生活するようになってちょうど1年を迎えた月でもありました。30年はとても長いように感じられますが、「もん」の記事を読んでいると、過去の出来事がいまだ鮮明に蘇ってきます。 私たちがこのベイエリアで起業するとき、真っ先にお世話になったのが今は亡き木村みち子さん、当時のPMP副社長でした。何も判らない私たちに、文字通り「手取り足取り」教えてくださいました。あれから10年、私たちも“公私”両方に渡って大きな節目となりました。志も新たに、太く長い絆をこのベイエリアの皆さんと作っていきたいものです。

父の気まぐれ
2004年6月、ふとした事がきっかけで私の故郷、岐阜の女子大を訪問しました。この大学で将来の幼児教育者を育成し、またその忙しい毎日の傍らにはご年輩の方に英会話を教えている長谷部和子先生との出会いなしに笑満とめぐり会うことはありませんでした。

エッセイの初回でふれた幾多の偶然をつなぐ糸は、父の気まぐれな「英会話を習いたい」という一言から端を発し、私たちの人生を大きく変える“赤い糸”の発端となったのです。 私の父は、50年近く中学と高校で教師として家族を支えてきました。非常に頑(かたく)なで教える事は出来ても、教えられることに対してはいつも拒否権を発令しているような人間。それに今まで父の口から聞いたことがある英語らしき単語といえば、“ビーフ”と“NHK ニュース”くらいのものでした。普段はバリバリの岐阜弁を話しているそんな父が、突然、「英会話を習いたいから学校探しを手伝ってくれ」とeメールが来たのは前年の11月でした。それは、その数ヶ月前に人生の伴侶を亡くした寂しさを少しでも紛らわすために他ならなかったのです。

ご存知のように、太平洋を隔てていてもパソコンの操作でどんな場所の情報をも得られ、その場に居ることなくあらゆるモノを探し出せる時代です。 そうやって私は老人のための英会話教室を見つけて父に伝えたところ、次の日に父は事務局へ行き、早々と受講を決めてきました。 新しい年が明けて正月休みで帰国していた私に、父はある相談を持ちかけてきました。「明日は、始めての授業だがみんなの前で自己紹介をしなあかん。英語でしたいがどうしたらええのか判らへん」人一倍プライドだけは高い父ですから、いい所を見せようと自己紹介を英語でやるというのです。仕方なく私は英語を習う動機として自分の息子がサンフランシスコにいるので、これからは息子の助けを借りなくてアメリカ中を旅したい・・・。 というような内容を簡単な英文にしました。そんな自己紹介をした父のたどたどしい英語を、英会話教室の先生であった長谷部先生が覚えていらしたようです。その数ヵ月後、幼児教育視察団の一員として訪米されたとき、サンフランシスコで私は初めて先生とお目にかかることになり、そして岐阜での再会を約束しました。

そんな経緯があって、長谷部先生が教鞭をとられる東海女子短大の訪問に至ったのですが、今だから言えるここだけの話、招待して頂いた時は、「女子大で若い女の子たちに囲まれて学食でランチするのもイイかなぁ〜」などという不純な気持ちがあったことは否めません。まっ、それはさておいて、先生の説明で幼児教育者の育成というお仕事の内容を知ったとき、私の心の中で「私たちを待っている子供が見つかるかも…」という淡い希望が、サンフランシスコを出るとき妻と交わした会話と交錯していました。

この時、日本における養子縁組の実情、養護施設の子供達のことについてお話を伺い、そして県内にある児童養護施設と“乳幼児ホームまりあ”の存在を初めて知ったのです。



青木信哉
Aoki USA, Inc.代表 & 翻訳家
Emasmile@aol.com